Masuk理人と距離を置いて一か月が経った。
生活は、もう手がつけられないほど崩れていた。
朝はフレックスぎりぎりまで寝て、朝食は食べない。昼はおにぎりかパンだけで済ませる。残業が当たり前になり、毎日終電で帰る。理人に管理されていたころの規則正しい生活が嘘のようだった。
その日もなんとか終電で帰って、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。梅雨が明けて、夏本番だ。汗をかいた身体のまま眠るのは気持ち悪いが、それよりも少しでも長く眠りたかった。
朝、重たい身体を起こして脱衣所に向かった。鏡を見て、ぎょっとした。目の下に真っ黒なくま。肌に艶がない。髪もぱさぱさだ。一気に五歳ぐらい老けて見える。理人に管理されていたころは、「最近肌きれいになったね」と梨沙に言われたこともあったのに。
「……ひでえ顔」
シャワーを浴びて部屋に戻ると、朝の光が散らかった部屋を照らしていた。足の踏み場がない。雑誌が床に散らばり、ゴミ箱からゴミが溢れている。キッチンにはビールの空き缶がいくつも並んでいた
まるで太陽のような人だと思った。◆ 俺には友達が少ない。 小学校のころからずっとそうだった。人見知りが強く、自分から話しかけることができない。話しかけてもらっても、なにを話せばいいのかわからず、黙ってしまう。表情が乏しいとよく言われた。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉がうまく動かないだけだ。 中学、高校と進んでも変わらなかった。クラスに馴染めず、休み時間はひとりで本を読んでいた。話しかけてくれる人がいなかったわけではない。けれど、会話が続かない。相手が気まずそうな顔をするのを見て、申し訳なくなって、自分から距離を置いてしまう。その繰り返しだった。 大学に入っても同じだった。講義のある日は大学に行き、終わればすぐに帰る。サークルにも入らなかった。入りたい気持ちはあった。けれど、あの輪の中に飛び込む勇気がなかった。 そんな俺にも、数えるほどだが友達はいた。同じ学科の佐々木という男が、入学初日に隣の席に座って「よろしくな」と話しかけてきた。俺が黙っていても気にしない男だった。沈黙を苦にしないタイプで、それが俺には楽だった。 大学一年の秋。その佐々木に「学園祭に一緒に行かないか?」と誘われた。「学園祭?」「明正大学の。彼女がそこに通ってるんだ。学園祭に来てほしいって言われてさ」「……俺が行っても邪魔じゃないか」「邪魔なわけねえだろ。ひとりで行くのもさびしいし」 断る理由もなかった。他の大学に行く機会なんてめったにない。それに、佐々木に誘われて断るのは申し訳ない。数少ない友達のひとりだ。 十月の土曜日。明正大学の学園祭に行った。 キャンパスは人で溢れていた。模擬店が並び、あちこちから音楽や笑い声が聞こえてくる。色とりどりの看板や幟がはためいている。楽しそうだった。けれど、俺にはその楽しさに入っていけない感覚があった。いつもそうだ。人が楽しんでいる場所にいると、自分だけがガラス一枚向こう側にいるような気持ちになる。見えているのに、そこに触れられない。 佐々木とふたりで回った。焼きそばを買って、たこ焼きを買って、ステージでバンドの演奏を聴いた。佐々木は楽しそうだった。俺は佐々木の横を黙ってついて歩いていた。 しばらくすると、佐々木の彼女がやってきた。「りっちゃーん!」と手を振りながら駆けてくる。佐々木の顔がぱっと明るくな
朝起きると、隣に理人が眠っていた。 ――よかった……。夢じゃなかった。 隣ですうすうと寝息を立てている理人を見て、ほっとした。昨日のことが、夢のように感じられたからだ。あんなに大切に抱かれるなんて、思ってもみなかった。思い出しただけでも、カッと頬に熱がこもる。 狭いシングルベッドに大人の男がふたり。けれどちっとも狭く感じないのは、理人が直をやさしく抱き寄せて眠っているからだ。 鼻先がくっつきそうな距離で理人の顔をじっと見つめる。 長いまつ毛が朝日を浴びて、頬に影を落としていた。起きているときはキリッとした印象だが、眠っているときはふんわりとやわらかい印象だ。「もう、俺から離れるな」 直は小さくつぶやいて、理人の額にキスを落とした。「はい。もうどこにもいきません」 急に理人が目を開けて、心臓が跳ねた。「お、お前っ! 起きてたのかよ……」「直が俺のこと見てくれてたんで、寝たふりしてました」「ば、ばかっ! 恥ずかしいだろ」「なんでですか? 俺はうれしいです」 理人が直を包んでいる腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめた。「もう離れないし、離してあげません」「そんなの……俺だって同じだよ」 上目遣いで理人を見ると、目が合った。まだ信じられない。後輩だった男と、こんな関係になっているなんて。恥ずかしさが抜けきらなくて、まるで初めて恋をしているようだった。 いや、実際に初めての恋なのだ。今まで本気で誰かを好きになったことがなくて、理人が初めて本気で好きになった相手なのだから。 お互いに見つめ合うと、自然と唇が重なった。お互いの想いを確かめるキスだった。 理人がベッドから身体を起こした。「じゃあ、朝ごはん作りますね」「おう。じゃあ俺も手伝う」「直は座って――」 直は理人の口を指先で塞いだ。「おい、昨日俺
理人が出ていって、どれくらい時間が経っただろう。 散らかった部屋の中で、直はひとり座っていた。理人がさっき脇に寄せてくれたテーブルの上を見つめている。コーヒーの匂いが残っている。理人の匂いが残っている。 好きだって言われた。「好きです。先輩のことが。ずっと。これからも」。あの声は本物だった。震えていて、かすれていて、七年分の重さがこもっていた。 なのに去っていった。 直には理人の行動が理解できなかった。好きなのに離れる。覚悟があるのに泣きそうな顔をしている。近づかないと言いながら、わざわざ大阪から東京まで来ている。全部、矛盾している。 けれど。 去り際の理人の顔を思い出した。あの表情。目が潤んで、唇が震えて、背中が丸くなって。あれは、離れたい人間の顔じゃなかった。離れたくないのに、離れなければいけないと思い込んでいる顔だった。 理人はこわいのだ。 管理という枠組みを外したら、自分がどうすればいいのかわからない。直のそばにいる方法が、管理以外にわからない。管理を手放したら、自分はただの執着していた後輩に戻ってしまう。そう思い込んでいる。 ――馬鹿だな、あいつ。 じゃあ、自分はどうだ。 直は管理される側はもう嫌だと言った。対等に立ちたいと言った。それは、理人から世話を焼かれるのが嫌なのではない。自分も理人になにかをしてやりたいと思ったからだ。 今までは彼女に世話を焼かれるばかりだった。自分から誰かに尽くしたいと思ったことなんてなかった。理人が初めてだ。理人のために弁当を作りたいと思った。理人の部屋を掃除したいと思った。理人が疲れて帰ってきたとき、あたたかいものを用意して待っていたいと思った。 世話を焼きたい。その気持ちの正体が、今ならわかる。 愛おしいから、大切だから、大事にしたいから——世話を焼きたいのだ。 だから理人は直のために毎日弁当を作ってくれたのだ。直の好きな味付けの、直の好きな献立で。直がくつろげるように家を掃除してくれた。体の疲れが取れるように、バランスの取れた食事を作り置きしてくれた。全
大阪で自分の気持ちを全部伝えた。 好きだと言った。対等に立ちたいと言った。管理じゃなくて、と。直にできることは全部やった。あとは、理人の答えを待つだけだ。そう思っていた。 けれど理人からは「考えさせてください」と言われた。返事は保留になった。拒絶ではないが、受け入れてもらったわけでもない。よろよろと公園の暗がりに消えていった理人の背中が、まだ目に焼きついている。 東京に戻ると、水城や梨沙が心配そうにこちらを見ていた。けれど、なにも聞いてこなかった。直の表情を見て、察したのだろう。聞かないでいてくれるやさしさが、逆にこたえた。 待つと決めたのは自分だ。七年待たせた。今度は自分が待つ番だ。 けれど、待つのはこんなにもつらいものなのだろうか。朝起きて、スマートフォンを見る。通知はない。仕事に行く。昼休み、スマートフォンを見る。通知はない。帰宅して、また見る。ない。その繰り返しが、毎日続いた。 直が大阪を訪れてから二週間が経った。理人からの連絡は一通のメッセージも、一本の電話もなかった。 もう、このまま終わるのだろうか。 不安が押し寄せてきた。仕事をしていても集中できない。もう無理なのかもしれない。直の告白が、逆に理人を追い詰めてしまったのではないか。「管理はいらない。対等にいたい」。あの言葉が、理人にとっては拒絶に聞こえたのかもしれない。直は前に進むつもりで言った。けれど理人にとっては、居場所を奪われたように感じたのかもしれない。 だとしたら、直はまた間違えたのだろうか。距離を置こうと言ったときと同じように。良かれと思ってしたことが、裏目に出る。直はいつもそうだ。 たった二週間なのに、もう何年も待っているような感覚だった。 理人は七年も待っていた。その間、ずっとひとりで。直のことを想いながら、声をかけられない距離で。好きだと言えない場所で。そう考えると、気が遠くなった。直は二週間で音を上げかけている。理人は七年間、一度も弱音を吐かなかった。その忍耐力と、その孤独に、今さらながら胸が痛んだ。 考えても答えは出なかった。理人の気持ちは理人にしかわからない。直にでき
直は何度、自分に「逃げるな」と言い聞かせただろうか。 距離を置こうと自分から言い出したのに、理人に冷たくされるとつらくて泣いた。水城に背中を押され、梨沙に問いかけられ、相沢に励まされて、ようやくここまで来た。そして理人の七年分の告白を聞いた今、今度は自分が伝える番だ。 自分のことなのに、他人に背中を押されないと前に進めない。情けないし、みっともない。二十七にもなって、なおさら情けない。 けれど、直は会社を半日休んで新幹線に乗り、大阪までやってきたのだ。今まで来たことのない街に、理人に会うためだけに。それだけは、自分の意志だ。水城に言われたからでも、梨沙に促されたからでもない。理人に会いたかった。自分の言葉で伝えたかった。ここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。 ここには水城も相沢も梨沙もいない。背中を押してくれる人は誰もいない。この公園のベンチには、直と理人のふたりだけだ。 自分の足で前に進まなければいけない。自分の言葉で伝えなければいけない。 理人も七年間の想いを伝えてくれた。学園祭のこと。冬の夜のこと。SNSのこと。入社の理由。全部、さらけだしてくれた。あの理人が。感情を表に出さない理人が。「管理です」の一言で全部を隠してきた理人が。直の前で、七年分の蓋を開けてくれた。 本当は言うつもりなどなかったかもしれない。「答えはいりません。知ってほしかっただけです」と言って立ち去ろうとした。直が引き止めたのだ。 だから今度は自分の番だ。理人がさらけだしてくれた分、直もさらけだす。 直は大きく深呼吸をした。夜の公園の空気を吸い込んだ。夏のなごりの熱を含んだ風が頬を撫でた。握った拳の中にじっとりと汗が滲んでいた。街灯の明かりが理人の横顔を照らしている。 直は理人を見た。隣に座っている理人と目が合った。理人の目はまだ揺れている。七年分の告白をした後の、丸裸になった目。直がなにを言うのか、待っている目。こわいような、期待しているような。けれど期待していることを自分に許していないような、複雑な目だった。 なんのために大阪まで来たんだ。しっかりしろ。 自分を叱咤して口を開いた。
理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」
直は午後から有休を取り、新幹線に飛び乗った。 東京から新大阪までは二時間半。新大阪から梅田までは地下鉄で十分もかからない。夕方には理人のオフィスに着ける。 新幹線の窓から、景色が流れていく。けれど、見ている余裕はなかった。膝の上で拳を握りしめて、じっと前を見つめていた。鞄の中に、あの紙袋が入っている。中にはベーカリーのショップカードと、使い込まれたメモ帳と、七年前の学園祭のパンフレットが入っている。直が知らなかった理人の七年間が、そこに詰まっている。 富士山が車窓を通り過ぎた。いつもなら写真を撮るところだが、窓の外を見る気になれない。
もうボロボロだ。 理人に会えたのに、完全に拒絶された。「距離を置いたほうがいいと思っています」。あの冷たい声がまだ耳に残っている。 けれど、一度だけ目が合った。あの一瞬、理人の瞳の奥になにかが見えた気がした。「簡単じゃないんです」。あの声は、距離を置きたい人間の声じゃなかった。 それがなにかわからない。直はぐしゃっと頭を抱えた。 どうしたらいいんだ。どうしたらあいつは戻ってくるんだ。どうしたら。 考えてもなにも浮かんでこない。ただ、胸の奥がずっと痛い。◆ 浮かない顔で仕事をし
自分から距離を置こうと言ったのに、気持ちが落ち着かない。 普通に接することができると思っていた。ただ先輩と後輩に戻るだけだ。理人が管理するようになる前に戻るだけ。それだけのことのはずなのに、朝起きるたび、隣にいるはずの人がいないことに胸がざわついた。 インターホンは鳴らない。八時になっても、八時十分になっても鳴らない。もう鳴らないとわかっているのに、つい玄関のほうを見てしまう。 ひとりで家を出て、ひとりで駅に向かう。梅雨が明けかけていて、朝から蒸し暑い。ぽっかり空いた右側がさみしい。理人がいたころは、この道を歩く時間が好きだった。たいした
金曜日の朝、久しぶりに直の家のインターホンが鳴った。 直はいそいそと玄関に向かった。「おはよう」「おはようございます」 玄関前に理人が立っていた。白いシャツにネイビーのパンツという、いつもの格好だ。肩に雨粒が少しついている。直は口元が緩みそうになるのを堪えた。「今日も雨だな」「一日降り続くようです。折り畳みじゃないほうがいいですよ」「おう」 直がしゃがんで靴を履いていると、頭上から理人の声が降ってきた。「……ひどいで